「弱さという贈りもの」
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「弱さという贈りもの」
チャプレン室 宮里 紗矢香
色々な方と会話をしていると、言葉の持つ豊かさに触れる瞬間があります。一つの言葉であっても様々な面や奥行きがあり、同じ言葉を用いていたとしても、お互いに異なる意味合いで捉えていることさえあります。話す方の心の想いに耳を傾けてみると、言葉を越えて伝わってくる特別な響きがあることに気づかされます。
最近、“弱さ”という言葉に対するイメージが、自分のなかで随分変えられてきたと感じています。一般的に、心身の状態や物質の限界を表したり、社会的に不利な状況や立場を指す際に弱さという表現が用いられるように、多くの方にとって“弱さ”とは歓迎しがたいものではないでしょうか。かつての私自身の理解も、「克服したいもの」「取り除かれる必要のあるもの」「恥を生じさせるもの」というような否定的な理解に偏っていました。そして、そのようなコントロールの効かない弱さを自分の内側に見出しては、自己否定を繰り返すのでした。
ところが、いつしか“弱さ”は私が私であることを表す言葉となりました。振り返ると、そこには弱さを受け入れてくれた人々との出会いがあり、弱さを覆ってくださる神との出会いがありました。言葉との新たな出会いの背景には、ありのままの自己が赦されるという経験があったのです。それは私にとってある種の“弱さ”をもたらした、切り捨ててしまいたかった過去との和解をも意味しました。
聖書を記した人物のなかに、パウロという人がいます。身体的に何かしらの“弱さ”を抱えていた彼は、この弱さからの解放を神に願いました。しかし、三度にわたって懇願する彼に、神は次のように語られます。
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント人への手紙第二12章9節)
これさえなければと訴えるパウロに対して、神は何を伝えていらっしゃるのでしょうか?
人は例外なく、不完全さという弱さを秘めた存在です。不完全さのうちに神の力が完全に現わされるということは、神がすべての人と共にいてくださるという約束のしるしです。
“健やかなる時も、病める時も、力のある時も、衰えていく時も、わたしはなおも変わらずあなたと共にいよう”そんな風に語りかけてくださる神の愛を知ったパウロは、力強く語っています。
「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
恥や脆さをまとった自分自身に注がれる神の眼差しを受けとるなら、もはやそこに陰はなく、弱さは神と人が出会う陽の当たる場所となります。ですから、神の恵みが真実であることのゆえに、私たちはこれ以上自分自身を取り繕ったり、隠そうとする必要はないのです。
あなたの弱さが、かけがえのないあなたの貴い一部となっていきますように。
