こころのサプリメント

「足を洗われるイエス」

チャプレン室 伊是名 雅弥

 
「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」
(ヨハネによる福音書13章1節)
 
最後の晩餐と言えば、レオナルド・ダビンチの描いた絵を思い浮かべますが、最後の晩餐の絵は主イエスが十字架につけられる前夜、過ぎ越しの祭りと呼ばれる祭りの前に、弟子たちと一緒にとられた夕食のことです。
 
この食事の席でイエスは立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いを腰に巻き、それから、たらいに水を汲んで来て、弟子たちの足を洗われました。
イエスが弟子たちの足を洗って、ペテロのところに来た時、ペテロは驚きの余り、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました。
なぜなら、足を洗うと言うのは召使い、奴隷の仕事だったからです。
 
当時のパレスチナの道路は、乾燥している季節にはほこりがたち、雨期になると土が泥になります。履物は革で出来た靴底を2、3本のひもで足に結びつけたサンダルでしたから、外を歩いて、家に帰って来る時には、足は道路のほこりや泥で汚れるのです。
それで、多くの家では家の戸口に水がめが置いてあり、家の主人やお客さんが入ってくると、召使いが足を洗い、手拭いで拭きました。
 
イエスのなされた洗足の行為は十字架による罪の贖いを意味するものでありますが、この時のペテロには無論、そのことが分かるはずもなく、イエスが自分の足を洗うのを拒みました。
ペテロの言葉を聞いて、イエスはペテロを諭すように「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。
 
イエスは弟子たちの心の思いと行動をすべて見通しておられ、そのような中で、後にイエスを三度も知らないと否むペテロの足を洗い、他の弟子たちを押しのけて神の国でイエスの右の座、左の座といった要職につくことを願ったヤコブとヨハネの足を洗い、イエスを裏切るイスカリオテのユダの足も洗われました。
この洗足の行為には、最後まで弟子たちを愛し通されたイエスの深い愛と祈りが込められています。
 
イエスは人々から仕えられるために来たのではなく、しもべとなって人々に仕えるために来られました。イエスの限りない愛は今を生きる私たちにも注がれています。
足というのは、私たちが歩んできたそれぞれの人生を表していると思います。
その足には喜びの時もあれば、悲しみや苦しみの時、罪や咎もあるでしょう。
 
私たちの足に積もり積もった悲しみや苦しみ、罪をイエスはすべて十字架で担ってくださり、洗い清めてくださいました。
十字架には罪の赦しと救い、傷ついた心の癒し、束縛しているものからの解放があります。
 
イエスは十字架にかかって死んで終わったのではありません。死んでお墓に葬られ、三日目によみがえられました。復活されたのです。
イエスの復活を記念して祝うのが復活祭、イースターです。
主イエスの十字架の愛に感謝し、復活されたイエスが私たちと共におられることに感謝して、希望と平安のうちに歩んでいきましょう。