こころのサプリメント

「バジル・ホールとクリフォード」

チャプレン室 伊是名 雅弥

 
皆さんはバジル・ホールの名前を聞いたことがあるでしょうか。
今年はバジル・ホールの来流200周年に当たります。
 
1816年、英国は清国との貿易交渉のために、アルセスト号とライラ号の二艦の軍艦で使節団を送りました。大使らが帰着するまでの間、両艦は朝鮮沿岸から琉球を探検したのです。9月16日に那覇港に停泊し、10月27日までの40日余、琉球で過ごしました。
 
その航海記録として、アルセスト号の医師J・マクロードの「アルセスト号朝鮮・琉球航海記」、ライラ号艦長バジル・ホールの「朝鮮西海岸及び大琉球島航海探検記」が出版されて、琉球がヨーロッパに知られるようになりました。
 
これらの航海記には、アルセスト号とライラ号の両艦隊が海禁政策の徹底していた朝鮮沿岸ではきびしい拒絶的な取り扱いを受けたのに対して、琉球では極めて友好的な対応を受けて、水や牛、豚、山羊、鶏、野菜等の食料品から蝋燭や薪などの必要物資を無償で提供されたことが記されています。
 
それだけでなく、病気になった乗組員への手厚い看護や航海中に亡くなった乗組員の埋葬と参列等、礼節に富み、親切心あふれる琉球の人々に接して、深い感銘を受けたことも述べられています。
 
また、通事として安仁屋、真栄平などの名前が出てきますが、マクロードやホールからMaderaと呼ばれた真栄平房昭(まえひらぼうしょう)の人となりについて紙面を割いて記されているのも注目されます。
 
真栄平が快活で、礼儀をわきまえ、「彼は一種の直観的な能力によって食卓につき、ナイフとフォークを使い、談話を交わし、一緒に散歩するなどという習慣 ― いわば、われわれの行う行為を、即座に自分のものにしてしまう。彼はそれを、特別の努力や学習なしで当然のことのようにやってのけるのである。その上、自分の国にかんするあらゆることを、つつまず教えてくれるので、われわれの彼に関する評価は高い。彼が英語に、われわれが琉球語に上達したならば、彼はもっと多くの情報を与えてくれることだろう」。
と述べて、真栄平の働きを高く評価しています。
 
真栄平は尚灝王26年(1829)、43歳で亡くなりますが、真栄平家にはホールから贈られたナイフや英語の備忘録が伝わっていました。また、彼が中国語音をかりて英語音を写した英会話集(日本で2番目の英会話集とされる)も著しましたが、すべて第2次大戦の戦火で失われてしまいました。
 
ホールが琉球から英国へ帰国する途中、セントヘレナ島に立ち寄った際に、流刑の身であったナポレオンに会い、「琉球には武器がない」ことを伝えた時、ナポレオンが「この地上で武器を持たない国があろうとは夢のようだ」と語った話は有名です。
 
また、この航海中、琉球での出来事を通して、大きな影響を受けた人物にH・J・クリフォードがいます。海軍士官であったクリフォードが友人バジル・ホールの率いるライラ号に乗って航海を共にしたのは27歳の頃であったとされますが、彼は琉球の人々に触れて、そのことばを集約して、「琉球語彙」を執筆しました。
クリフォードは琉球寄港の翌年には海軍を退いて、アイルランド沿岸警備隊に加わりましたが、琉球の人々の恩義を忘れることができませんでした。
琉球のことを調べている内に、イギリス艦船プロビデンス号(1797年)、インディアン・オーク号(1840年)が琉球近海で遭難した時に、いずれも島の人々に救助されて、手厚い保護を受けて、生還したということを知りました。
 
クリフォードの琉球への思いと祈りは、ロンドンにおいて、琉球におけるキリスト教の布教を唯一の目的とする「英国海軍琉球伝道会」の設立につながっていきました。
(この伝道会の名称に「英国海軍」とありますが、クリフォードを支援した人々に、英国の海軍関係者が多くいたことから「海軍」の名称が入っており、海軍当局との直接の関係はありません)。
 
そして、この伝道会から1843年に琉球に遣われたのが英宣教医B・J・ベッテルハイムです。英国海軍琉球伝道会は当初、宣教師と医師の2人を琉球へ派遣する計画をもっていましたが、2人を派遣するには資金が足りずに困っていました。
 
その時に、この伝道会に応募してきたのがベッテルハイムでした。ベッテルハイムを見て同伝道会は喜びました。なぜなら、ベッテルハイムは宣教師であり、また医者でもありましたから、ベッテルハイムは宣教と医療の両分野に、うってつけの人物であったからです。
 
ベッテルハイムは9年に及ぶ琉球での働きを終えて、1954年7月16日にボウハタン号に乗船して帰国しますが、英国海軍琉球伝道会を支援してきたスコットランド、グラスゴー在住のアレックス・アラン夫人はベッテルハイム帰国後も琉球での伝道再開のために祈っておられました。
 
夫人が世界漫遊の途次、神戸の外国人教会の礼拝に出席した際に、同郷のバプテストの宣教師であったタムソン氏に出会い、琉球に伝道を始めるなら、これに必要な資金を喜んで提供すると約束したのです。そして、その申し出を受けて、1891年12月、ベッテルハイム帰国後、途絶えていた琉球伝道の働きがアメリカバプテストによって展開されました。その後、多くのミッションの伝道活動も行われるようになりました。そのような一連の経緯の中に神様の不思議な摂理と導きを感じます。
 
参考「朝鮮・琉球航海記」(ベイジル・ホール著、春名徹訳、岩波文庫、1986))
「アルセスト号 朝鮮・琉球航海記」(J・マクロード著、大浜信泉訳、真栄平房昭解説、榕樹書林、1999)
「英宣教医ベッテルハイム 琉球伝道の九年間」(照屋善彦著、山口栄鉄、新川右好訳、人文書院、2004)
「異国と琉球」(山口英鉄著、榕樹書林、1881)